社交不安障害
序論
社交不安障害(Social Anxiety Disorder:SAD)は、人前で話す・食事をする・会合に参加するなどの社会的状況で強い不安や恐怖を感じる精神疾患です。かつては「社会恐怖(social phobia)」とも呼ばれ、単なる内気さや恥ずかしがりとは異なり、他者から否定的に評価されることへの強い恐れが特徴です。こうした恐怖は非合理的で過剰な場合が多く、発汗・震え・顔面紅潮など身体症状を伴い、本人も過度な不安であると自覚しつつコントロールできません。そのため誤解されやすく、「ただの恥ずかしがり屋」「性格の問題」と見過ごされ治療が遅れることもあります。しかし実際には未治療では慢性的に症状が持続してしまい、他の精神疾患を併発してしまうリスクもあります。適切な治療によって改善可能な疾患であることを正しく理解することが重要です。
疫学
社交不安障害(SAD)の有病率は、国や調査によって異なりますが、例えば米国では成人の12か月有病率が約6.8%、生涯有病率は12.1%と報告されています。一方、日本の調査では12か月有病率は約0.8%と低く、文化的要因や報告の差が示唆されています(日本では「対人恐怖症」という類似概念が古くから用いられ、他者を不快にさせることへの恐怖が強調される傾向があります)。発症年齢の中央値は13歳と若年期に始まることが多く、75%は8~15歳までに発症します。男女比では女性の方がやや有病率が高いことが知られ(オッズ比1.5~2.2)、社会的役割やホルモン要因など複合的な原因が考えられます。社交不安障害(SAD)患者の約3割は他の精神疾患を併存し、他の不安障害やうつ病、双極性障害、物質使用障害などが合併することが少なくありません。一方で、社交不安障害(SAD)はその性質上、人に相談しづらく受診率が低い傾向があります。治療を受けない場合、約60%の人は症状が何年も持続するとの報告もあり、早期に専門家の診断と治療につなげることが大切です。
社交不安障害(SAD)には遺伝的素因と環境要因の双方が関与します。家族研究では一親等内で社会不安傾向が高まることが示唆され、双生児研究から遺伝率は中程度(約30~50%程度)と推定されています。もっとも、特定の原因遺伝子が単独で存在するわけではなく、複数の遺伝要因と生育環境の相互作用(素因-ストレスモデル)で発症リスクが高まると考えられます。実際、行動抑制気質(幼少期から新奇刺激や他者を警戒し引っ込み思案な気質)は将来社交不安障害(SAD)を発症しやすい素因とされます。また心理社会的要因として、幼少期のいじめ・虐待など不安を誘発する心的外傷体験や、過度に批判的または過保護な養育態度、家庭内不和などもリスク因子になりえます。こうした要因が重なるほど発症リスクが高まる一方、逆に社交スキル訓練や暖かな人間関係など保護因子があれば発症を予防できる可能性もあり、発達過程での脆弱性とストレスのバランスが重要です。
症状・診断
社交不安障害(SAD)の診断には国際的にICD-11(国際疾病分類第11版)やDSM-5(精神障害の診断と統計マニュアル第5版)の基準が用いられます。主な要点は共通しており、社交場面や人前での行為に一貫して強い恐怖・不安を感じること、他者に否定的評価をされることへの強い懸念、およびそれら場面の回避行動がみられることです。例えば会話、会食、発表、人前で字を書くなど様々な状況で「失敗して恥をかくのでは」「緊張が周囲に伝わり評価が下がるのでは」と恐れ、動悸・震えなどの症状が出ます。こうした不安は少なくとも6か月以上持続し(日常的に長期間続くことが特徴)、著しい苦痛や生活上の支障(学業・仕事・対人関係の破綻など)を引き起こしている場合に診断されます。これらの症状は他の疾患では説明できないことも必要です。一方で日本の対人恐怖症は社交不安障害(SAD)の文化的変種と位置付けられており、他者を不快にさせることへの恐怖が前景に立ちます。ICD-11でも対人恐怖は社交不安障害(SAD)の文化関連症候群として扱われています。
治療
薬物療法
SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)/ SNRI(セロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬)
SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)およびSNRI(セロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬)といった抗うつ薬が社交不安障害(SAD)の第一選択薬です。SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)/SNRI(セロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬)は脳内のセロトニンやノルアドレナリンの量を増やし神経の過敏性を和らげる作用があり、不安や恐怖反応を徐々に軽減します。効果発現まで2~4週間ほど要しますが、約7~8割の患者で不安症状の改善がみられます。SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)/SNRI(セロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬)は依存性はないですが中止時に離脱症状が出ることがあるため、医師の指示のもと徐々に調整します。
ベンゾジアゼピン系抗不安薬
ベンゾジアゼピン系抗不安薬は即効性が高く強力に不安を抑える作用があります。脳のGABA受容体に作用し神経の興奮を鎮めることで、不安・緊張・自律神経症状(動悸、震えなど)を素早く軽減します。頓服(必要時にその都度服用)でプレゼン時などの苦手な場面で使うと不安症状を和らげる効果が期待できます。しかし依存性や耐性形成(徐々に効きにくくなる)が問題となりうるため、長期連用は避けるのが原則でで第一選択薬にはなりません。症状が特に強い初期に短期間用いる、必要な場面でのみ頓用する、といった使い方が勧められます。
認知行動療法(Cognitive Behavioral Therapy:CBT)
認知行動療法(Cognitive Behavioral Therapy:CBT)は、不安や恐怖を引き起こしている考え方(認知)と行動パターンを修正し、症状の軽減を図る精神療法です。SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)/ SNRI(セロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬)と並んで社交不安障害(SAD)治療の第一選択であり、長期的な効果が期待できる点が利点です。
曝露療法(エクスポージャー療法)
曝露療法(エクスポージャー療法)では患者が恐れて避けてきた状況に段階的に直面する練習です(段階的曝露)。安心できる場で治療者の指導のもと少しずつ人前での行動に挑戦し、不安がピークを越えても実際には「恐れていたような大惨事は起こらない」ことを体験的に学習します。段階的かつ継続的な曝露により不安は徐々に減弱し、回避の悪循環を断つことができます曝露療法は社交不安障害(SAD)克服の中心的技法で、効果は治療後も長期維持する傾向が示されています。
認知再構成法(Cognitive Restructuring)
認知再構成法は 不安を感じる場面で頭に浮かぶ自動思考(「笑われるに違いない」「自分はダメだ」など)を治療者とともに検討し、よりバランスの取れた考え方に修正する手法です。まず自分の考えの偏りに気づき、「証拠はあるか?」「最悪の事態の現実性は?」といった問答で検証します。例えば「会議で発言したら馬鹿にされる」という考えに対し、「根拠のない予測では?」「万一うまく話せなくても皆が軽蔑するわけではない」など論理的に反証します。これを繰り返すことで「必要以上に他者の評価を恐れなくてもよい」という新たな認知が形成され、不安が軽減します。認知再構成法は曝露療法と組み合わせて行われることが多く、実際に不安場面に直面した結果を検証材料として用いることでより現実的な認知の修正につなげます。
ソーシャルスキルトレーニング(Social Skills Training:SST)
ソーシャルスキルトレーニング(社会技能訓練)は対人場面での具体的な対処技能を向上させる訓練です。社交不安障害(SAD)の人は緊張から視線をそらしがちだったり、小声になったりするため、まずアイコンタクトや適切な声の大きさなど基本的なスキルを練習します。また会話が続かない場合はあいづちの打ち方や話題の広げ方をロールプレイで学びます。ソーシャルスキルトレーニング(SST)によって対人関係の成功体験が増えると自信がつき、不安の悪循環を断つ助けとなります。